ウォルター・ペイジ(Walter Page)が率いたブルー・デヴィルズ(Blue Devils)と言えば、そのバンドの変遷は様々な悲劇に彩られているわけですが、その実力はライバルの競合バンドとの間で行われた音楽合戦で証明されています。
ジェス・ストーン(Jesse Stone)は、ブルー・デヴィルズ(Blue Devils)に音楽合戦で敗れたことがきっかけで楽団のブラスセクションが崩壊し、解散の憂き目にあっていますし、当時のカンザス・シティの音楽界を支配していたベニー・モーテン(Bennie Moten)もブルー・デヴィルズ(Blue Devils)には手を焼いていました。
1928年にパセオ・ホールで行われたブルー・デヴィルズ(Blue Devils)との激しく長時間にわたる音楽合戦に敗北すると、ベニー・モーテン(Bennie Moten)はブルー・デヴィルズ(Blue Devils)の主力メンバーを勧誘するようになりました。その好条件にブルー・デヴィルズ(Blue Devils)を抜けるメンバーが出始めて、ついには、リーダーのウォルター・ペイジ(Walter Page)もベニー・モーテン(Bennie Moten)に屈し、1932年12月のヴィクターでの録音に合わせて、移籍しています。
1932年12月に行われたベニー・モーテン(Bennie Moten)の録音には、当時のカンザス・シティの一線級のミュージシャンが名を連ねていますが、そこにはバスター・スミス(Buster Smith)とレスター・ヤング(Lester Young)の名前はありませんでした。実は、この2人は、1933年末に解散するまでブルー・デヴィルズ(Blue Devils)に残り続けた最後のメンバーでした。
当時のブルー・デヴィルズ(Blue Devils)が戦った音楽合戦について、バスター・スミス(Buster Smith)の貴重な証言が残っています。
We didn’t care anything about any band till we met Andy Kirk–he gave us a rough time. He always did keep a good brass section; he had a tight brass section. Our reeds had them going, but we couldn’t get our brass to hit like Andy Kirk’s boys.
アンディ・カークの楽団に出会うまでは、俺たちの相手になるようなバンドはいなかった。彼らには苦労させられた。アンディ・カークのブラス・セクションはいつも良いメンバーを揃えていたし、それは本当にタイトだった。俺たちのリード・セクションは巧くやれていたんだが、ブラス・セクションはアンディ・カークの楽団員のような演奏はできなかった。
The Jazz Review (Jan.1960) ※翻訳は当サイト
これに対するバスター・スミス(Buster Smith)の対抗策がまた面白いんですね。
It was me and Lester Young and Theodore Ross. Ross and I played alto and would put tenor reeds on our horns, and Lester would put a baritone reed on his tenor and then that brass couldn’t drown us out. We played as loud as the brass did. People thought it was real great, the reeds being as loud as the brass section. Of course they didn’t know the real story.
リード・セクションは、俺とレスター・ヤングとセオドア・ロスだ。俺とロスはアルトサックスにテナー用のリードを挟み、レスターはバリトン用のリードをテナーに挟み込んでいた。そうすると、ブラスの音に俺たちの音が消されなくなる。俺たちの音は、ブラスと同じくらい大きかった。ブラスと同じくらいデカい音を出すリード・セクションを聴いて、皆がこれはすごいことだと思っていたけれど、その仕掛けのことは分かっていなかった。
The Jazz Review (Jan.1960) ※翻訳は当サイト
ブルー・デヴィルズ(Blue Devils)の音楽合戦での勝ちっぷりには、ブラスの音にかき消されないようにする為の彼らの工夫が貢献していたのかもしれません。